夢現逃避

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 やれやれ、と溜息を吐こうとして、そんな自分に気付いてぐっと呑み込む。肉体的に疲れているわけではないのに、まるで条件反射のように溜息を繰り返す自分が嫌だ、と治療屋は思った。それにしても、溜息を吐きたくなるようなことばかり思いついてくれるものだ。若さというのは向こう見ずで微笑ましく、無鉄砲で恐ろしい。

 治療屋は電子カルテを眺めながら、傍らに置いてあったヘッドマイクを装着した。パソコンから別回線で電話をかける。コール音五回目で若い女の声が応答した。

「ハイ、可憐。今ちょっと大丈夫かしら?」

 呼び出した相手は年下の友人であり、異職種ながら仕事仲間と言える関係でもある、祓い屋と呼ばれている少女だった。幸い今は仕事を終えて自宅でくつろいでいたところらしく、少し電話が長くなっても大丈夫そうだ。一呼吸置いて、治療屋はまず走査屋の定期診察の結果を少女に告げた。まずは一人でいきちんと診察を受けにきたことを伝えてから、こまかい診察の内容までを説明する。

 悪いところはないけれど、かといって良くなるわけでもないこと。それを告げても、少女はそう落ち込んだりはしない。先進的な機械化治療や、積極的なリハビリに励むわけでもない走査屋のことを一番良く知っている祓い屋は、まず状態が悪くならないだけいいと悟っているのだろう。治療屋としては現状維持という状態ですらもどかしいものに感じられるのだが。

 それはともかくとして、治療屋は診察の結果を説明した後に、走査屋の不穏としか感じられない動きについて言及した。なにやら破壊屋絡みの――破壊屋が絡んでいればいつだって――危険な情報に興味をそそられている様子であることを伝えると、相槌を打つ祓い屋の声も自然と神妙なものになった。走査屋と話しているよりもずっとこちらの意図が伝わりやすい。女同士は――精神的にはそのつもりなのだが――やはり会話がしやすくていい。

「……そういうわけなのよ、可憐。ちょっと走査屋の坊やにあんたからも釘を刺しておいて」

 喋りながら治療屋は何件かのメールに返信をし、同じく何件かの電子カルテに目を通して書き込みをした。

「そうよ。……えぇ、あんたも忙しいんでしょうけれどね。走査屋は放っておくと駄々をこねるだけじゃあすまないから。……そうね、そうしてやって。ほんと、男って困るわ。……ふうん、あんたも物好きよね、祓い屋。……あら、あたしはあんたほど物好きじゃあないと思うけど?」

 通話の先でどちらも同じだ、と祓い屋は笑った。その通りだ、と思えた治療屋は苦笑でもって返す。

「あぁ、そうね。時間が取れるなら今度一緒に食事でもしましょ。あたしは平気よ。えぇ、時間ぐらいいつでもとれるわ。……じゃあね。いつでもいいから、今度はそっちから連絡ちょうだい。バイ」

 三秒待って、通信は向こうから切られた。それを確認してから、治療屋はヘッドマイクを外して机の上に投げる。

「やれやれ、ね。我がまま坊やの思惑に乗ってやるっていうのも、疲れるもんだわ」

 走査に関係すること以外はまるで小僧っ子の走査屋の思惑など、治療屋には丸分かりだ。きっと今頃、治療屋から連絡を受けた祓い屋が、自分の所へ電話してくるのを待っていることだろう。彼は既に電話回線を走査していて、治療屋が祓い屋に連絡をとったことを知っているに違いないのだから。もしかしたら、会話の内容までもすべて。

 趣味の良いこととは言えないが、元々この建物の回線はすべて走査屋が掌握しているのだから、プライバシーなどあってないようなものだ。逆に内部のことを一切外部に漏れないように管理しているのも走査屋なのだから、そういう能力を持たない治療屋には口を挟むことはできないのだった。走査屋が治療屋の仕事に口を挟むことができないことと同じ。

「あら、いけない。こんな時間」

 パソコン画面で時計を確認すると、治療屋は慌てて電子カルテを閉じ、パソコンをロックしてから立ち上がった。着ている白衣はそのままで、診察室となっている部屋から出ると、静脈認証装置で部屋にもロックをかける。そうして向かった先は同じ建物内の地下階だ。

 三重のセキュリティによって守られた場所には、治療屋の恋人が眠っている。言葉の通り、ただ昏々と眠っているだけなのだ。

「……調子はどう? ……まぁ、いいわけないわね」

 そうやって幾晩声をかけたことだろう。だが答えを得られることなく、沈黙のうちに変わらぬ寝顔を見る日々が続いている。最後に声を聞いた日は、最後に目を見合った日は、確実に遠くなっていく。焦燥感に身も焼かれそうな日々は通り過ぎてしまった。今はもう、確実に二度と言葉を交わせないという可能性へ向かってゆっくりと不安を溜め込んでいるだけなのだ。

「今は夢を見ているのかしらね? どんな夢?」

 脳波の様子を確認してから、努めて明るく声をかける。そんな努力も続くのはあと何年だろうか。治療屋は点滴で栄養を補っている恋人の痩せた頬を撫でた。


 ぼんやりとしか目に映らない路地を、現実味のない足取りで歩く。こんなことを、もう何度も繰り返しているように思えるのだけれど、そのループから抜け出すことはできない。足は勝手に前に出て、不確かな地面を蹴ってやがてどこかへ辿り着く。今回辿り着いた先は、一軒の喫茶店だった。橙色の照明と、表に出された看板が何となくそんな雰囲気を醸し出している。

「いらっしゃいませ」

 入ってみると、やはり何かの店ではあるらしく、とても美しい人が出迎えてくれた。とても美しいことは分かっても美しい女性かどうかははっきりとしない。この世界が曖昧なせいか、他人の性まで曖昧なようだ。私は店の奥の棚に目をやって、自分が予想した舞台設定が間違いないことを確信しつつも尋ねて言った。

「ここは喫茶店ですか?」

 すると一人しかいない店員は行儀の良い人形のように微笑んで答えた。

「修理屋も商っておりますが」

 私は店内をぐるりと見回した。目の前の店員以外は誰もいない。客も私一人のようだった。

「修理屋……では駄目だろうな。すみません、私は古い切手を探しているのですが」
「切手、ですか。その手紙に貼るために?」

 言われて初めて気がついた。私は確かに、左手に封筒を持っているではないか。書かれている字には見覚えがある。お気に入りの万年筆で書いた、下手くそな私の字だった。一体いつから手にしていただろうか。そんな疑問が頭をよぎったが、いつだって疑問は一過性のもので長続きはしない。

「……えぇ、そうです。なので、どこか古い切手を売っている場所をご存知ではありませんか?」

 私は瞬時のうちに手の中に現れた手紙の存在をするりと受け止め、店主と思われる人に向かって問いかけた。

「切手ならばうちでも多少扱っておりますよ。骨董品も扱っている店ですから」

 何と都合の良い。見せて下さい、と私が急かそうとしたタイミングで、店主はカウンターに珈琲を置いた。

「どうぞ」

 促されてカウンター席に座る。何だかこのまま煙に巻かれてしまいそうな気がして警戒しつつだったのだが、思わず香ばしい匂いをさせた珈琲に意識がいってしまう。

「これはトラジャですか」

 自分でも声が弾んでいるのが良く分かった。

「えぇ、お気に召しませんでしたか?」
「とんでもない。逆ですよ。とても、好きな銘柄なんです」

 私はカップを手にして、いつもそうしていたように飲むより先にその香りを思い切り吸い込んだ。あぁ、鼻に当たる湯気までこれはまるで現実のようだ。


 この部屋には治療屋が泊まりこむことができるような設備がすべて整っていた。現に治療屋は週の半分をこの部屋で過ごしているのだ。いつ目覚めるか分からない恋人の側に、なるべくついていたいという気持ちが強いのだろう。

 治療屋は簡易キッチンで珈琲を入れ、眠る恋人の側で定位置となっている椅子に座った。恋人に出会ってからもしばらくは珈琲などインスタントで十分だと思っていた治療屋も、今は珈琲メーカーを使ってドリップしたものしか飲めなくなっている。しかも豆は恋人の好きだったトラジャばかり。

「好きな珈琲の匂いを嗅いでいるだけじゃあつまらないでしょうにね」

 この香りが、このコクが、という恋人の薀蓄を聞いているうちに、トラジャ以外は飲めなくなってしまったのだから自分でも笑える。

「それとも、夢の中で珈琲を飲んでいるってわけ?」

 贅沢よ、と治療屋は続けた。数々の温暖化対策も功を奏さず、結局地球の環境は100年前に比べて大きく変化した。数々の島が、陸地が海に沈み、当然気温差によってあらゆる植物が、動物がその生息地を移すか、絶滅するという事態に陥ったのだ。当然、珈琲豆もその産地を変えざるを得なかった。陸地が減り、産地が移り、結果として栽培地は減少。価格は高騰した。何もそれは珈琲豆だけには限らないのだけれど。

 それまでもあまりメジャーというほどの位置を確保していなかったトラジャは、かろうじて今でも流通しているけれ、一般市民には高級品となってしまっている。この五年の間でさえ、価格はさらに上がっているのだ。もし夢の中で、労せずしてこの珈琲を飲めているのであれば、それはそれで幸せ、なのだろうかと治療屋は考えてしまう。

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